私自身へ向けたメッセージで書いているけれど、同じように落ち込んでしまって自己嫌悪に陥っている人にも届いたら嬉しいな。
授業参観に行く度に落ち込むのは何故
何度目かの授業参観は「グループワーク」「歌」の2部構成でした。
お母さん、私は後ろの席だからね!
歌もあるから私の後ろにいてね!
嬉しそうに、けれども少し恥ずかしそうに授業を受けながら私を見ている長女のなんと愛おしいことでしょう。
愛おしさを感じる反面、授業参観の後、どうしても落ち込んでしまう私がいました。
子供がうまく授業に取り組めなかった(他責)
グループワーク中、長女のことを指摘した子がいました。
その指摘は棘のあるような言葉で、聞いていた私が不快に思うほどでした。
この子は長女のことが嫌いなのかな?
長女、クラスメイトに嫌われてない?心配。
しかし、指摘内容自体は間違っていないため、ハラハラしながらも見守ります。
長女はこちらの気を知ってか知らずか無反応…。
そうこうするうちに、次は歌です。
長女と仲良しの子が伴奏を弾いていました。
この伴奏、実は長女も練習していました。
しかし、伴奏に選ばれたのはお友達…。
そんな背景も相まって、伴奏をしていたのはあの子ではなく長女だったかもしれないと思うと正直悔しいという気持ちでいっぱいになりながら、歌を一生懸命に歌う長女の姿を見ていました。
自分の育て方や関わり方が悪かった(自責)
子供が指摘されると親である自分まで指摘された気持ちになりました。
伴奏に選ばれなかったのは私が家で長女のピアノ練習に付きっきりで見てあげなかったから?
今まで長女を育ててきた自分の成績表を見せられ、『ほらこんなに出来ないんですよ、そうやって育て上げたあなたの母親レベルはこんなモノですよ』と突きつけられたような、勝手に自分を評価された気持ちになりました。
本来なら子の成長を感じ、喜びを感じる授業参観でこんな悲しい気持ちになっていいのか。
良いわけないでしょう!
果たして落ち込む必要はあったのか?
どうしても比べる対象がたくさんいるから、無意識レベルで比べてしまうのは仕方のないことだと思います。
では、果たして落ち込む必要はあったのでしょうか。
結論から言うと落ち込む必要はなくて、それはただ自分の感情で子どもを推し量っているだけなんだと気づきました。
自分にとっての「子ども」って何?
大前提に子どもと自分は近い他人であることをしっかり理解しないといけません。
自分の分身のように子どもに接することはあってはならないことなのです。
あくまでも他人!
自己投影したい気持ちは抑える!
子が生まれた直後の気持ち
この子が幸せで健康であればそれ以上は望まない。
そう思って我が子を抱いたあの日を、子に対しネガティブな感情が出てきた時、常に思い出します。
世話をして身の回りのことを教えたり、躾したり、勉強させたり、経験させたりしているのも、結局子が将来豊か(金銭面や感情面において)に暮らしていけたら幸せだよね、と言う願いや想いが原動力なんだと思います。
子への期待
しかし、育てていけば欲が出るもの。
人間は欲を糧に生きる生き物。
また、習い事をさせて(言い方は悪いが課金して)いたら、良い賞・良い成績はとって欲しい!私たちの子ならできるよね!?といった傲慢な欲が子への期待になってしまっているなと反省しました。
平凡な両親から天才が生まれるわけないのよ。
そう考えるのは傲慢だってことよ。
でも世の中には天才っているからな。
傲慢にならないように育てていけばいいだけの話じゃない?
親である自分ができること
子どもの気持ちを考える
では、指摘されたことや伴奏に選ばれなくて長女がどう思っていたのか。
授業参観後に長女に聞いてみました。
ああ、あのこと?
あれは前から先生にも言われてたことだし。
ちょっと言い方嫌だったけれど、その子ってそういう性格だし言い方もいつもあんな感じだよ。
ね!伴奏してた子すごいでしょう!
それよりね、頑張って歌ったよ!
ちょっと恥ずかしかったけど、動画お父さんにも見せてね!
ああ、長女はとっても明るくて周りを認められる素敵な子なんだな。
長女は指摘されたことはしっかりと自分の中で消化し、また、親である私の目の前で歌を歌えたことに喜びを感じていたんだなとわかり、私が落ち込む必要は本当になかったことを教えられました。
私が勝手に自分を責めてただけでした。反省。
一面だけを捉えないことが重要
授業参観という一面だけを捉えて子のことを判断するのはナンセンスだということがわかりました。
そもそも授業参観で子の学校生活全てを知った気になる必要なんてないし、ましてや親である自分の通信簿でもないのです。
一面だけではなく、全体を見通せる余裕と包容力が自分には必要でした。
大前提に親である自分は完璧ですか?
そもそも一面だけ見て評価を下せるほど親だって偉くないし完璧じゃないからね。
それだ〜〜〜
伴奏してほしかった、選ばれてほしかったっていうのも親のエゴ・見栄なんだろうね
夫も口癖のようによく「我々大人だって完璧な人間は一人だっていない」と家族全員に言っています。
出来ないことがあってもいい。
不完全だからこそ、人生は面白い。
子どものいい所を伸ばす手伝いができれば親の役割は大体終わったも同然
伴奏に選ばれるために練習させた方が良かった、と夫にメールで溢した時の夫からの返信です。
「努力しなさい」って親が言うのは簡単だけど「じゃああんたは何かに努力して結果出してるんかい」と反論されるとぐぬぬとなってまうんよ。どの口が言うんだよって。
子どもは語彙力がないからそこまで言い返せないけど、相手が大人なら絶対そう反論されるじゃん。だからそれは言うべきではないのよ。言うなら最低限、自分も何かやってる姿を見せないといけないのよ。
あとは本人の適性でハマるものを見つける手助けをしてやるのが親の仕事ではないのでしょうか?それがピアノかもしれないし別のことかもしれないし。
ぐぬぬ…
授業参観後、長女はすぐに「お絵描きしたいからバイバーイ!」と手を振って友達の元に駆けて行きました。
楽しいことを全力で楽しむ。
これもまた、長女の良い所なんだよなと再確認できた授業参観でした。
子どもがやりたい!と挑戦したいことができたら全力で応援できる、そんな親に私はなりたい。
まとめ
授業参観という一面を見て落ち込む必要は全くない。
私の子は私の子であって、人と比べる必要はない。
ただ、子の成長を暖かくサポートする。
今はそれで良いんじゃないでしょうか。まだ小学生ですしね。
そりゃそうか!
落ち込んで他のが嘘みたいに無くなった!
この記事が参考になれば嬉しいです!
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最後に夫へ。
夫の吹き出し部分は夫からのメールをそのまま載せました。
ごめんね!